Beautiful boy
この思い出は以前から頭の中を漂っていたが、なんとなくスルーしていた。今回書き上げた後もブログに上げるかしばらく悩んだが、まあ他言は無用、できればここだけの話ってことで(ネットに上げといて言うのもなんですが)
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さて世間の話題の一つは相変わらず新型コロナ感染である。
そろそろ立ち会い分娩を再開したいが新規感染者数の減り具合が微妙で・・・(でもできるだけ早期に再開しようと思ってはいますのでもう少しお待ちください)
社会全体は経済活動優先の方向にシフトしつつあるようだが、病気持ちの自分は感染予防が最優先なので引きこもり生活を継続中。
今日も診療以外の空いた時間は寝てるか事務仕事などで過ごす。ながら作業が好きなので音楽を流しながらがいつものスタイル。さ〜てどんな曲にしようかとビートルズからスタートし、そこからポール・・・ジョージ・・・リンゴ・・・
ジョン・レノン・・・いいね!
特によく聴いていたのは高校に入る頃
親戚の家に遊びに行った時に(院内の刺繍作品はそこの人が製作したものです)ジョンの曲をエアーチェックしたカセットテープを聴かせてくれた。
気に入ったと言ったらそのままカセットをくれたのでしばらくよく聴いた。
ジョンの曲はソロになってからは感情表現がストレートなのと、英語の歌詞が易しく意味を理解しやすいのが特徴かな。(哲学的なのもありますが)
久しぶりだったがやっぱりいいねえ
しばらく聴いていると
あ、この曲
「Beautiful boy」
う〜〜ん、この曲はずっと封印していたのだが・・・・・・
ひさしぶりに覚悟を決めて聴くか!
最初にこの曲を聴いた時の印象は息子ショーンへの想いを綴ったかわいい歌だなあといった程度だった。
次に聴いたのは医師になってすぐの頃
たまたま観た映画「陽の当たる教室」でのひとコマ。リチャード・ドレイファスが演じる主人公の音楽教師がコンサートで聾唖者である息子に歌う場面。息子にわかるよう手話を交えてゆっくりと語りかけるように歌うシーンは感動的で、まだ独身だったぼくの心に深く残った。
ただその後は日々の仕事に忙殺されこの曲を聴く機会はしばらくなかった。
結婚して初めての子供が生まれた。
逆子だったが周りの先生に助けられ自分自身もドキドキしながら無事に経腟分娩。(今だったらもうやらなかったかも)
いつも一緒に仕事していた小児科の先生方も立ち会ってくれ、低体重で色もいまひとつなので一応小児科で預かりましょう、となった。
やれやれ無事終わったと医局で放心してると程なく「ちょっとお話が」と連絡・・・ん?
小児科病棟へ行くと先生曰く
「子供さんに心臓病があります。このままでは手術をしないと助かりません。ここでの管理は無理なのですぐ専門病院へ搬送します。」
・・・・・・ええっ!!!
一瞬にして頭は真っ白になったが、自分はなにもできないまま息子は「あっ」という間に救急車で搬送されていった。(その当時は胎児超音波の中でも心臓はまだまだ一握りの専門医が診れるくらいだったし、自分はそれまで婦人科をメインにしていたせいもあるが診断をつけれなかったのはショックだった)
最初はNICU管理だったので決まった時間に夫婦二人して会いにいく。
たくさんのラインに繋がれた息子を見ると管理上そうすることは知っているのにやはりショックだ。
少し抱っこさせてもらう時嫁さんは毎回目にいっぱい涙を溜めてる。自分はといえばずっと混乱した精神状態のまま呆然としていたと思う。(夢の中にいる様な感じだった)
手術はできるだけ目標体重まで増やしてから行うという方針で、幸い息子の容態は安定していたので一般病棟に移ってしばらく手術待ちすることとなった。
そこからがタイヘン!
嫁は長い付き添い入院の生活が始る。
自分は大学に転勤する事が既に決まっていたので仕事の引き継ぎや引っ越しでバタバタ。
大学勤務後も環境に慣れるのが大変だし、産科の副病棟医長と医局執行部の仕事も兼任することになっていてバタバタ。
それでも仕事の合間を縫ってこども病院へ車で行き、差し入れと少しの間付き添いを交代するが規則とかやり方がわからずバタバタ。(人見知りなので周りのお母さんに聞いたりなんてできない)
この時期が一番ハードで体力、気力ともにかなりすり減っていた。(でも本当に大変だったのは嫁さんだったろうに愚痴一つ言わずに付き添いしてくれて申し訳なかった)
そんなある日
その日も面会を終えて夜遅くに自宅のマンションに帰り着く。灯りをつけると家の中は未開封の荷物だらけでなんとも殺伐としている。
この状況で何もせずにひとりぼっちはまずいぞ。ともかく何か曲でもかけて歌って気を紛らわそう。
しばらく音楽に身を任せているとこの曲が流れてきた。
南国の海辺を思わせるスティールドラムと波音が心地よく、穏やかな調べにのって息子に甘く優しく語りかけるジョンの歌声♪〜♪〜♪〜
まだ幼い息子が健やかに成長していくさまを心待ちにする飾り気のない歌詞が一緒に歌っていると身体の芯までどんどん染み込んでくる♪〜♪〜♪〜
・・・・・・なんだか目頭が熱い
・・・・・・あれ涙が止まらない
息子が産まれてから聴くとこの曲への共感度がこれまで聴いてきた時とは全然違う。我が子を思う親の気持ちは世界共通だなと妙に納得しながらも「こんなに泣くかね」と自分自身にあきれて独り言。
まあ止まらないならとことん歌ってしまえと何度も繰り返し聴き続けそのまま酒を煽って眠りについた。
開き直ったのがよかったのかその後は気持ちが吹っ切れ、相変わらず色々大変だったが頑張れた。
そしてようやく手術のゴーサイン。長かった〜
手術当日は朝一番に入室。静かに搬入されるストレッチャーを夫婦で静かに見送った
「頑張れよ」
手術は当然ながら大手術だった。(10時間近くはかかったと思う)
遠くには行けないので夫婦二人して待合室にいたり交代で少し病室や院内をあてもなく歩いたり座って本を読んだり。会話もするが何も手につかない。昼食もどんな味だったか覚えてない。
果てしなく長い時間を過ごし、窓からの景色が夕焼けから夜の帳が下りる頃になってようやく「手術は無事予定通りに終わりましたよ」との連絡。ホッ。
妙に明るい廊下を医師、看護師に囲まれたストレッチャーが帰室時するときに遠くから少しだけ我が子を見ることができた。
とても小さく見える我が子を誇りに思いながら「あいつよく頑張ったよね」と嫁さんに語りかけると少し口元を綻ばせ、またポロポロと涙をこぼしていた。
こうして家族の長い長い1日は無事終わった。
術後は幸い経過も良好で、だんだん息子も元気になってくれたので(顔色も良くなってきて初めて色黒じゃないんだとわかった)緊張していた心も徐々に和らいでいった。
そしてついに!ようやく!退院。
親子3人が揃って自宅で暮らせるようになったのは産まれてから約3ヶ月も経ってからのことだった。息子は産まれた直後からずっと病院だったので我が家へは初めての帰宅。
家もやっと片付き、活気も出てきて平穏な日常を取り戻す中でその曲のこともふんわりと記憶の彼方へ。
そんな息子も今は元気に県外でやっているが心配はしている。でも連絡したり帰省した時の会話は「元気にしてるか?」「うん」てな感じでそっけない。(素直に感情を表現するのはお互い苦手で・・・)
とても大変だったが大きな経験をさせてもらったと思う。これを機に周産期については超音波などを含め懸命に勉強させてもらい、周産期専門医も取った。
今でも妊婦健診の時はお腹の赤ちゃんの可愛い表情をお母さんと楽しみながら、でもその一方何かあったらどれだけ大変かは身をもって理解しているので異常がないかは常に気にかけている。そして病気が見つかった時にお母さんへ寄り添う気持ちも自身の経験が生かされているのかなと思う。
なぜこの時期に話すかというと、実は長男は僕と誕生日が同じ2月生まれで今回の話はちょうどこの時期の出来事だったりする。
自分が病気になってからは、この子と共に今年も一つ年を取れることがさらにうれしい。(もちろん、うちの子みんなにそう思ってる)
みんな『健やかな明日でありますように』
と言うわけでこの曲は涙なしでは聴けないし歌えなくなっちゃって・・・
だから封印してたのに、結局ずっと聴いちゃったよ(他の人がいない時でよかった)
またしばらく封印しておこう。
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改めて文章にしてみると、いや〜こりゃ結構壮絶な体験だったような気がしてきたぞ。その当時は必死だったんでそこまで大変だと思ってなかった、というか考える暇さえなかったからなあ。
最近はコロナによる世界的パンデミック、ロシアのウクライナ侵攻、先日東日本大震災から11年とつらく悲しい内容の報道が続く。
これらに共通して意識したのは人とのつながり、特に家族の絆の大切さかな。
人生は人災、天災など様々な理由でいつ何があるか分からないし今回の思い出はなんらかの形で残したいと思っていた。これまで家族を含め誰にも話したことはなかったが、このまま先延ばししていると永遠に機会を失ってしまうかもしれない。(もちろんそんな悲観しているわけではなく僕も家族もこの病院もまだまだずっと頑張っていくつもりですけどね)かといって面と向かって話しもできないし、というわけでブログの形にでも残しておこう。
まあここだけの話しってことで(まだ言ってる)
(やれやれ、長文にしないようにと気を付けていたはずなのにいつの間にか文字数が
3,000字軽く越えちゃってるよ。歳をとると話が長くって・・・)