思い出のアイランド
今年は遅い梅雨入りだったが、いまのところ地味に降ってる。最近は毎年国内のどこかで大雨,
洪水が起こっていたので、このまま地味な感じで終わって欲しいものである。
コロナ感染も県内はいまのところ落ち着いてきていて立ち合い分娩、マムクラブも安定して開催できているのでみなさんにも喜ばれていてホッとする。もう少ししたら妊婦健診とかの付き添いとかも戻したいが・・・もうちょっと様子を見ながらそろりそろりと戻します。
最近、地元紙などで神原小学校の冒険島が解体されると聞いた。
知った時の率直な気持ちは「あ〜、ついにか」である。
思い起こせば自分が小学校に入学した時には既にあって(1967年建設だそうで生まれる前からあったのか・・・)正面玄関前に聳え立つ姿とその存在感はなかなかのものである。市内でももうこんな大きな設備はなかったんじゃないだろうか。
卒業後も学校前を通る時は「あ、あるな」って感じでそこにあることが当たり前みたいだったが、その後も大学に入り、医師になりと県外へ出たあとも時々前を通ると、やっぱり全く変わらない姿でずっとあるので毎回「ええ!まだあるんだ」と思っていた。
なにせ僕の卒業アルバムの集合写真は冒険島の前で撮っているが全然変わっていない!
老朽化もしていただろうに変わらないにも程がある。(いやいや丁寧に使ってきたということか)
自分の小学校時代の学校での思い出は冒険島にあると言っても過言ではない。教室の思い出より冒険島のことの方が鮮明に覚えている(ちゃんと勉強してたのか?)
卒業以来島内に入っていないが冒険島のどこに何があるかは大体覚えている。
島の中は小学生にはかなり広かったのでこのエリア内限定で鬼ごっこしたり助け鬼したりで走り回った。というのも島だけあって中央が盛り上がっていて見通しが効かないのが逆によかったし回遊もしやすかった。
四隅の大きな土管の中に隠れ隙を見て土管を渡り歩く。正門側の木のところでくるっと回って身をかわす。半分埋め込んだ古タイヤの上を渡り、滑り台横の階段を駆け上がり、滑り台が使えるなら滑りたいが、大概詰まっていたし下から登ってくる子が当たり前にいたので(今やっちゃダメですよ〜)その時は横の吊り橋を渡って反対側の塔から一気に飛び降りる。(やっちゃダメですよ〜)
吊り橋のサビで手を真っ赤にしながら真冬でもみんな半ズボン(その当時はそれ一択で長ズボンでも履こうもんならカッコつけてるとか言われたもんだ)で走り回ってたなあ。
跡地は体育館になるそうだがともかくお疲れ様でした。冒険島は、解体されてもみんなの記憶にはずっと残ると思うな。
4月に書くべきブログ
はっと気がつくと5月ももう後半。あれ?ブログまだ書いてなかった。
そういえば先月は新年度で病院も9周年だったが結局今年も宴会はコロナで流れてしまい盛り上がりには欠ける。来年こそは開院10周年になるので盛大に・・・(できるといいな〜)
そしてさらにそういえば僕はこの4月で医師になって30周年だった。(先月は急に「名前」についての話を思い立って勢いで書いて失念していたのである)
まあ、30年経ったからといって自分が急に変わるわけでもなし、これまで色々積み重ねてきた通過点というだけなのでそんなに驚いたり感動するわけでもないなあ。
そもそもなんで産婦人科医になったか。
かっこいいきっかけでもあれば良いのだが・・・実はない。(今の医師になっていく人たちにはしっかりした動機があったりしてすごいと思う)
ただし、親とかから医師になれと言われたわけでもない。父親からは「医者とかなるなよ、特に産婦人科はぶちエライからやめた方がええぞ」と言われ続けたが、なぜか医学部を受けていた。何科になるかも手術は好きなので外科系になりたいと思ってはいたが産婦人科になったのもなんとなくだった気がする。(そんなことでいいのか!)
やりがいとか面白さはいろいろ大変な目に遭いながら徐々についてきたところはあるが今は産婦人科でよかったと思っている。
そして宇部に帰ってきて良かったなって思う。いろいろ苦労して得た経験、知識、技術を宇部で還元できるのは嬉しい。
ちょっと帰れないかもしれないと思った時期もあったが、偶然継承のお話しをいただいてからとんとん拍子に決まった。その後宇部周辺の開業医もどんどん減ってきてしまい、今はうちを入れて2軒のみ。その意味でも帰ってきていてよかった。
上手くいえないけど30年も経つと診療がどんどん自然体になっていく。(病気もしてるので無理をしないってのもあると思うけど)医療していると言うより市内に数多くある色々な仕事の一つであり、宇部市民の日常生活の一部に産婦人科が溶け込んでいる感じがしてとても良い。
患者さんとの年齢差はだんだん大きくなり、どんどん子供たちの歳に近くなっており、自分の娘を診察するようである。(そこまででもないが頑張っている姿を見ると応援してあげたくなる気持ちは親心に近いかな)
でも患者さんとは対等と思っているから下に見るような対応はしたくないので同じ目線での診療は心掛けている。
まあ今後もこんな感じでやっていければいいな。頑張ろうっと。
名前
今日も退院診察をして「産後の経過も順調ですよ。退院OKです」
診察終わりに患者さんにプレゼント。手形、足形、顔写真そして名前が決まっていれば命名用紙をお渡しする。僕もその時初めて名前を確認。
さて我が子にどんな名前を付けたのかな?
なるほど、この名前はお父さんの名前から一字取ったんだ
ああ、今の季節だからこの名前
上のお子さん達の名前からの繋がりでつけたんだな
流行りの名前、可愛い名前、かっこいい名前・・・名前はそれはもう百花繚乱といった感じ。
そりゃこれでこの子は一生この名前で呼ばれるんだから気合も入ろうというもの。
みんな一生懸命考えた跡が忍ばれる。だからみんないいお名前。
みんなからたくさん名前を呼んでもらって元気に育っておくれ。のちに著名人として名前が出たときに「あっ!この名前は」ってなことになったらうれしい。
自分の子供達の命名の時もだいぶ考えた。画数とか口に出した時の語感とか読み間違えしないようになどあれこれ考えて最高の名前をつけたつもりだ。
もちろん名前だけ良くしたからって当人の中身が良くなければってこともわかってる。
ただ適当な名前つけてよくない人生を歩まれ「あ〜、もっといい名前つけとけばよかった」
と後悔はしたくないしね、ってことを父親から言われたことがあって非常に納得したので自分もそうした。
あとは各々自分の力を出し切れるよう頑張っておくれ。
そういう自分も、良い名前をつけてもらった。
苗字より名前が目立つのでずっと友達から「龍之介、りゅうのすけ」と「下の名前で呼ばれるから後輩から「ずっとあだ名かと思ってました」とか「苗字なんでしたっけ」とか言われた。
自分の年代ではなかなか珍しい名前だったが最近割と見る。というかどうやら同姓同名が結構いるようなのである。
ネットで名前を検索するとミュージシャンとか学生とかスポーツ選手とかどんどん出てくる。
そういえば、何かの会合で名刺交換した時に「同姓同名の知り合いがいます」と言われたこともある。
じつは僕の名前の画数がかなり良いのである。苗字1字に名前3文字で収まりも良いし付けやすいから多いのかな。
同姓同名同士でどこかで一同に介してみても面白いか?
先日芥川龍之介の手紙が見つかって自分の名前を間違っていると相手に怒っている内容で、その時の間違いは「介」が「助」になってたらしい
わかるわ〜
これは僕もよく間違えられるんだよな〜。
あと「龍」が「竜」だったり「之」が「ノ」だったり、稀に読みでも「たつのすけ・・さんですか?」ってなんでそんな読み方するかな、なんてのもある。
でも祖父の間違えが一番すごくて子供の頃遊びに行くといつも「おお、龍太郎ようきたの」と呼ばれてた。すごく可愛がられていたし、いちいち間違いを指摘するのもなんだったのでずっとそのまま「うん、うん」と返事してた。多分亡くなるまでずっと龍太郎と思われていたと思う。
これからも皆さんどんな名前をつけて来られるか楽しみだ。
Beautiful boy
この思い出は以前から頭の中を漂っていたが、なんとなくスルーしていた。今回書き上げた後もブログに上げるかしばらく悩んだが、まあ他言は無用、できればここだけの話ってことで(ネットに上げといて言うのもなんですが)
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さて世間の話題の一つは相変わらず新型コロナ感染である。
そろそろ立ち会い分娩を再開したいが新規感染者数の減り具合が微妙で・・・(でもできるだけ早期に再開しようと思ってはいますのでもう少しお待ちください)
社会全体は経済活動優先の方向にシフトしつつあるようだが、病気持ちの自分は感染予防が最優先なので引きこもり生活を継続中。
今日も診療以外の空いた時間は寝てるか事務仕事などで過ごす。ながら作業が好きなので音楽を流しながらがいつものスタイル。さ〜てどんな曲にしようかとビートルズからスタートし、そこからポール・・・ジョージ・・・リンゴ・・・
ジョン・レノン・・・いいね!
特によく聴いていたのは高校に入る頃
親戚の家に遊びに行った時に(院内の刺繍作品はそこの人が製作したものです)ジョンの曲をエアーチェックしたカセットテープを聴かせてくれた。
気に入ったと言ったらそのままカセットをくれたのでしばらくよく聴いた。
ジョンの曲はソロになってからは感情表現がストレートなのと、英語の歌詞が易しく意味を理解しやすいのが特徴かな。(哲学的なのもありますが)
久しぶりだったがやっぱりいいねえ
しばらく聴いていると
あ、この曲
「Beautiful boy」
う〜〜ん、この曲はずっと封印していたのだが・・・・・・
ひさしぶりに覚悟を決めて聴くか!
最初にこの曲を聴いた時の印象は息子ショーンへの想いを綴ったかわいい歌だなあといった程度だった。
次に聴いたのは医師になってすぐの頃
たまたま観た映画「陽の当たる教室」でのひとコマ。リチャード・ドレイファスが演じる主人公の音楽教師がコンサートで聾唖者である息子に歌う場面。息子にわかるよう手話を交えてゆっくりと語りかけるように歌うシーンは感動的で、まだ独身だったぼくの心に深く残った。
ただその後は日々の仕事に忙殺されこの曲を聴く機会はしばらくなかった。
結婚して初めての子供が生まれた。
逆子だったが周りの先生に助けられ自分自身もドキドキしながら無事に経腟分娩。(今だったらもうやらなかったかも)
いつも一緒に仕事していた小児科の先生方も立ち会ってくれ、低体重で色もいまひとつなので一応小児科で預かりましょう、となった。
やれやれ無事終わったと医局で放心してると程なく「ちょっとお話が」と連絡・・・ん?
小児科病棟へ行くと先生曰く
「子供さんに心臓病があります。このままでは手術をしないと助かりません。ここでの管理は無理なのですぐ専門病院へ搬送します。」
・・・・・・ええっ!!!
一瞬にして頭は真っ白になったが、自分はなにもできないまま息子は「あっ」という間に救急車で搬送されていった。(その当時は胎児超音波の中でも心臓はまだまだ一握りの専門医が診れるくらいだったし、自分はそれまで婦人科をメインにしていたせいもあるが診断をつけれなかったのはショックだった)
最初はNICU管理だったので決まった時間に夫婦二人して会いにいく。
たくさんのラインに繋がれた息子を見ると管理上そうすることは知っているのにやはりショックだ。
少し抱っこさせてもらう時嫁さんは毎回目にいっぱい涙を溜めてる。自分はといえばずっと混乱した精神状態のまま呆然としていたと思う。(夢の中にいる様な感じだった)
手術はできるだけ目標体重まで増やしてから行うという方針で、幸い息子の容態は安定していたので一般病棟に移ってしばらく手術待ちすることとなった。
そこからがタイヘン!
嫁は長い付き添い入院の生活が始る。
自分は大学に転勤する事が既に決まっていたので仕事の引き継ぎや引っ越しでバタバタ。
大学勤務後も環境に慣れるのが大変だし、産科の副病棟医長と医局執行部の仕事も兼任することになっていてバタバタ。
それでも仕事の合間を縫ってこども病院へ車で行き、差し入れと少しの間付き添いを交代するが規則とかやり方がわからずバタバタ。(人見知りなので周りのお母さんに聞いたりなんてできない)
この時期が一番ハードで体力、気力ともにかなりすり減っていた。(でも本当に大変だったのは嫁さんだったろうに愚痴一つ言わずに付き添いしてくれて申し訳なかった)
そんなある日
その日も面会を終えて夜遅くに自宅のマンションに帰り着く。灯りをつけると家の中は未開封の荷物だらけでなんとも殺伐としている。
この状況で何もせずにひとりぼっちはまずいぞ。ともかく何か曲でもかけて歌って気を紛らわそう。
しばらく音楽に身を任せているとこの曲が流れてきた。
南国の海辺を思わせるスティールドラムと波音が心地よく、穏やかな調べにのって息子に甘く優しく語りかけるジョンの歌声♪〜♪〜♪〜
まだ幼い息子が健やかに成長していくさまを心待ちにする飾り気のない歌詞が一緒に歌っていると身体の芯までどんどん染み込んでくる♪〜♪〜♪〜
・・・・・・なんだか目頭が熱い
・・・・・・あれ涙が止まらない
息子が産まれてから聴くとこの曲への共感度がこれまで聴いてきた時とは全然違う。我が子を思う親の気持ちは世界共通だなと妙に納得しながらも「こんなに泣くかね」と自分自身にあきれて独り言。
まあ止まらないならとことん歌ってしまえと何度も繰り返し聴き続けそのまま酒を煽って眠りについた。
開き直ったのがよかったのかその後は気持ちが吹っ切れ、相変わらず色々大変だったが頑張れた。
そしてようやく手術のゴーサイン。長かった〜
手術当日は朝一番に入室。静かに搬入されるストレッチャーを夫婦で静かに見送った
「頑張れよ」
手術は当然ながら大手術だった。(10時間近くはかかったと思う)
遠くには行けないので夫婦二人して待合室にいたり交代で少し病室や院内をあてもなく歩いたり座って本を読んだり。会話もするが何も手につかない。昼食もどんな味だったか覚えてない。
果てしなく長い時間を過ごし、窓からの景色が夕焼けから夜の帳が下りる頃になってようやく「手術は無事予定通りに終わりましたよ」との連絡。ホッ。
妙に明るい廊下を医師、看護師に囲まれたストレッチャーが帰室時するときに遠くから少しだけ我が子を見ることができた。
とても小さく見える我が子を誇りに思いながら「あいつよく頑張ったよね」と嫁さんに語りかけると少し口元を綻ばせ、またポロポロと涙をこぼしていた。
こうして家族の長い長い1日は無事終わった。
術後は幸い経過も良好で、だんだん息子も元気になってくれたので(顔色も良くなってきて初めて色黒じゃないんだとわかった)緊張していた心も徐々に和らいでいった。
そしてついに!ようやく!退院。
親子3人が揃って自宅で暮らせるようになったのは産まれてから約3ヶ月も経ってからのことだった。息子は産まれた直後からずっと病院だったので我が家へは初めての帰宅。
家もやっと片付き、活気も出てきて平穏な日常を取り戻す中でその曲のこともふんわりと記憶の彼方へ。
そんな息子も今は元気に県外でやっているが心配はしている。でも連絡したり帰省した時の会話は「元気にしてるか?」「うん」てな感じでそっけない。(素直に感情を表現するのはお互い苦手で・・・)
とても大変だったが大きな経験をさせてもらったと思う。これを機に周産期については超音波などを含め懸命に勉強させてもらい、周産期専門医も取った。
今でも妊婦健診の時はお腹の赤ちゃんの可愛い表情をお母さんと楽しみながら、でもその一方何かあったらどれだけ大変かは身をもって理解しているので異常がないかは常に気にかけている。そして病気が見つかった時にお母さんへ寄り添う気持ちも自身の経験が生かされているのかなと思う。
なぜこの時期に話すかというと、実は長男は僕と誕生日が同じ2月生まれで今回の話はちょうどこの時期の出来事だったりする。
自分が病気になってからは、この子と共に今年も一つ年を取れることがさらにうれしい。(もちろん、うちの子みんなにそう思ってる)
みんな『健やかな明日でありますように』
と言うわけでこの曲は涙なしでは聴けないし歌えなくなっちゃって・・・
だから封印してたのに、結局ずっと聴いちゃったよ(他の人がいない時でよかった)
またしばらく封印しておこう。
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改めて文章にしてみると、いや〜こりゃ結構壮絶な体験だったような気がしてきたぞ。その当時は必死だったんでそこまで大変だと思ってなかった、というか考える暇さえなかったからなあ。
最近はコロナによる世界的パンデミック、ロシアのウクライナ侵攻、先日東日本大震災から11年とつらく悲しい内容の報道が続く。
これらに共通して意識したのは人とのつながり、特に家族の絆の大切さかな。
人生は人災、天災など様々な理由でいつ何があるか分からないし今回の思い出はなんらかの形で残したいと思っていた。これまで家族を含め誰にも話したことはなかったが、このまま先延ばししていると永遠に機会を失ってしまうかもしれない。(もちろんそんな悲観しているわけではなく僕も家族もこの病院もまだまだずっと頑張っていくつもりですけどね)かといって面と向かって話しもできないし、というわけでブログの形にでも残しておこう。
まあここだけの話しってことで(まだ言ってる)
(やれやれ、長文にしないようにと気を付けていたはずなのにいつの間にか文字数が
3,000字軽く越えちゃってるよ。歳をとると話が長くって・・・)